Story
思い出の喫茶店
喫茶店Uncle-BuBuの味にハマった常連客の一人による深煎り専門の自家焙煎珈琲豆通販サイトです
「うちのフレンチはぬるいけど、イイ?」
20年ほど前にUncle-BuBu の主人が言ったその言葉を、私はつい最近のことのように覚えている。
ドリップの際に、珈琲に落とすお湯の温度が苦味に影響することを、当時の私はまだ知らない。そういった抽出技術の話ではなくて、店の一見さんにかける決まり文句として、事前に知人から聞いていた通りにぼそっと主人が言ったからである。とすると、あらかじめ聞いていたように、客の飲み方を叱ったりするような気難しい人に違いないと勝手に思んだ一見の私は、連れとの会話を控えることにした。そんな状態だったからか、その時飲んだフレンチブレンドの味を実はあまりよく覚えていない。しかし、それから私はUncle-BuBu に通った。
張りつめるような静けさに満ちた店内に、ビル・エヴァンスの曲がいつもかかっていたことを私は後で知った。聞き取れないくらいの小さな音だったのだ。客が数人いる時でも、みんな黙って本を読んだり、雑誌を見たりしながらコーヒーを飲んでいた。誰かが追加の注文をすると、主人は読んでいた本を置き、珈琲豆を挽いてドリップの準備を整えて、お湯の温度を確かめてから鮮やかな手つきでお湯を注ぐ。私はいつもその一連の所作に目を奪われていた。
私に茶道の覚えはないが、おそらくそんな感じがしていたと思う。主人は気難しい人ではなく、求道者のようにも見えるこだわりの人だった。
君にこの味がわかるかい?
そう問われているように感じていた私は、いつもとにかく味覚に意識を集中させて飲んでいた。
くつろぐための一杯ではない。30歳そこそこの未熟な私が、人生の先輩と一杯のコーヒーを介して対峙していた。 それはあるいは、寿司屋で一流の職人とカウンターを挟んで相対する一人前の大人という青年期に私が抱いた憧れのシーンをダブらせていただけなのかもしれない。口の中に広がるコーヒーの苦味は、まさに人生と日々の苦しみをそのままに受け止める大人の味なのかもしれないと思いながら、その多様さに気づき、苦味の奥に漂うほのかな甘を感じながら、それらが刻々と入れ替わり立ち替わる変化を舌で追いつつ、あたかもフルオーケストラの様々な音色を聞き分けるかのようにそれらの味わいに浸っていた。
深いコクとは味の複雑さ、重層性だと教えてくれたUncle-BuBu のフレンチブレンドは、めくるめく豊穣な香味の世界に浸ることができる至極のコーヒーであった。
「今回はうまく焼けたよ」
Uncle-BuBu の主人は、会うたびにそう言って笑みを浮かべていた。
同じように焙煎するといつも勝手に同じ味になると私は思っていたが、どうやらそうでもないらしい。焼き上がり具合が気に入らないと惜しげも無く捨ててしまうと、後に、弟子のひとりという常連さんに聞いた。
その頃の私は、買い置きしたUncle-BuBu の豆が無くなるたび、足繁く店に通っていた。
いつもは閉店後にするという豆の焙煎を、客がぱったり来なくなった時には閉店前でもし始めることがあって、そんなタイミングで私が店を訪れたために主人が焙煎するのを見た事ことが何度かあった。普段は目にすることのない光景に私はワクワクしながら見入っていた。焙煎後に冷却槽で撹拌される珈琲豆を見ているだけでも十分に面白かったのだが、そこから焼き損なった豆をはじく作業をさせてもらったこともある。
コーヒーの入れ方や作り方を知ることが味わいのイメージを広げるような気がして、私は焙煎にも興味を持つようになった。
ある時、ブレンドの仕方を教えてあげるよと言って、主人は棚から生豆を次々に取り出して計量し、焙煎機の投入口の上にある生豆ホッパー入れた。そこで先にブレンドしてから焙煎するらしい。
混合焙煎と呼ばれるこの方法は、今思うと、Uncle-BuBu のフレンチブレンドが5種類の豆を混ぜて作っているので、豆の大きさや乾燥度合いなどに大きなバラつきがある上に、使ってる焙煎機が直火式なので余計に煎りムラが起きやすいやり方である。焙煎の煎り止めのタイミングが豆によって違うことから、単品焙煎してからブレンドするよりも味のコントロールが難しい。にも関わらずこのやり方にするところに、フレンチブレンドの味の秘訣があるように思われる。それは一回性や偶然性を重視して、意図的に極めて微妙な煎りムラを使って多彩な味を創り出し、ねらったレベルに達していないと躊躇無く破棄するやり方。まるで芸術作品のように。
接客よりも焙煎が好きだと言っていた主人は、田舎にこもって焙煎だけやっていけたらイイ、とも言っていた。一回一回の焙煎に全霊を込めて、珈琲豆と対話し格闘する中に喜びを感じていたに違いない。
「今回はうまく焼けたよ」
主人はそう言ってニヤリと笑った。
「うまく入れれるようになったか?」
「ええ、まあ・・・」
Uncle-BuBu の主人の問いにそう答えながら、私はどういう理由で味が違うのかを考えていた。珈琲豆はほぼ同じものなのに、店で飲むと全く別物のように感じるのは何故なのか。
Uncle-BuBu で珈琲豆を買うようになって私は抽出方法を、それまで使っていたペーパードリップからネルドリップへと変えた。少しでもUncle-BuBu で飲む味に近づけるためにである。
以前の私は、コーヒーの味に対してさほどのこだわりはなかったのだが、祖母から譲り受けた手廻し式のクラシックミルを所持していたこともあって、挽きたてであることにはこだわっていた。粉の状態で買った珈琲との香味の差があまりにも歴然としていたからである。それでも豆はドトールで買った豆で十分に満足していた。
そんな私が、Uncle-BuBu のフレンチブレンドを飲んでからはコーヒーの味が気になりだして、いろいろと飲み比べるようになった。コーヒーに、美味しさを求め始めたのである。
抽出方法が重要であると本で知って、フィルターからネルドリップ方式にまず変えて、注ぎ口が大きかったコーヒーポットを注ぎ口が小さなものに変え、さらに注ぎ口を少しだけ縦に潰して注ぐ湯量をコントロールしやすくした。注ぐお湯の温度もいちいち計ってから入れるようにした。お湯を沸かすヤカンを南部鉄瓶に替えた時の違いは劇的だった。一気にまろやかで優しい味になった。
自分で入れてもそれなりに美味しいと思えるのだが、それでも及ばない主人の一杯に近づきたくて、私は以前にも増して注意深く主人の手元の動きを見るようになった。
蒸らしのお湯を注ぐ時、いつも主人は受けるカップを逆さまにしていて、抽出し始める二回目の注湯の前にカップを返して、ネルの濾し布から滴るコーヒーを受けていた。カップを逆さまにするのは、蒸らしの間にコーヒーが落ちてないことを見せるためだと教えてくれた。つまり、粉全体にお湯を振りまいて蒸らしを充分に行いながら、必要な量のお湯しか注いでいないということ。これが非常に難しくて、私は未だにできていない。注ぐお湯の量と動きをコントロールする高度の抽出技術が、あの味を支えていた。
「珈琲屋やってみるかい? 喰いっぱぐれなくてイイぞ」
以前は東宝映画のカメラマンだったという主人が、同じように映像の仕事をしていた私に言った。
Uncle-BuBu の主人は、私くらいの年の時に将来を考えて転職したらしい。
私もコーヒー好きではあるが、その当時は Uncle-BuBu のコーヒーが飲めればそれだけで良かった。
あの味は、主人が丹誠込めて焙煎した珈琲豆と、高度な抽出技術と愛情でそれをドリップする渋い主人と、色も香りもコーヒーそのものみたいになっていた店舗と、この三つが揃って初めて創り出されるものだと思う。 棚に並べられた珈琲豆のビン。カップ。片隅に鎮座する焙煎機。いつもさりげなく添えられている一輪のバラ。微かなBGM。読書する主人。それらが醸し出す店の雰囲気と、その中で行われた主人との対話。それらすべてが、主人のコーヒーに託す想いとなって味に溶け込んでいたに違いない。
私が Uncle-BuBu でよく食べたホットサンドには、ハムとチーズの他に海苔が一枚挟み込まれていた。和のかすかな味わいが全体を微妙にシフトさせつつ調和して、個性的な逸品になっていた。一枚の海苔にたどり着くまでに、一体どれだけのものを挟んで試したであろうか。訥々とした口調の主人の言葉から、当時の私はどれだけ想いを受け取れていたのだろうか。
初めて飲んだ時には衝撃を受けたわけでも感動したわけでもなかったフレンチブレンドの味が、忘れられない味となったのは、2005年にUncle-BuBu が閉店して二度と味わえなくなってしまったから。そうして初めて強烈に、私はあのコーヒーに魅せられていたことを思い知ったのだ。
Uncle-BuBu の常連客の多くがおそらくそうであったように、私もまた禁断症状のようなものにおそわれて、その渇きを潤すコーヒーを求めて多くの喫茶店を彷徨いながら、替わりとなるようなコーヒーには出会えないでいた。
嗜好品は特にそうだと思われるのだが、味覚が記憶を呼び覚まし、記憶が味覚を増幅するのだろう。他のコーヒーではもう満足できないように思われた。
ならば、どうするか。
自分で焙煎するしかないかもしれないと、不遜ながら思った。
そうして、中古の焙煎機を入手して、自宅の一室を焙煎室に改造し、ハード面を整えた。同時にソフト面も整えるべく、弟子のひとりといわれる常連客に教えを請い、いろいろと教わった。Uncle-BuBu の主人が焙煎を学んだという恵比寿のヴェルデには一度見学に伺った。Uncle-BuBu と同じように必要な生豆をサニーフーズで購入した。そうやって無謀にも自家焙煎を始めて、様々に試行錯誤して気づくとほぼ10年が経過していた。
ただ自分が飲むためだけに焙煎してきたので、まだまだUncle-BuBu の珈琲には及ぶべくもないものの、少しでも近づきたいと思っている。